コミュニズム、プロパガンダ、レーニン、プリピャチ

プロローグ

2010年11月ポーランド  これが最後の訪問のはずだったが帰国後数日でまた行きたいと思うようになった。ゾーンのことがずっと頭を離れない。人気のない、見捨てられた町や村−−−移住することを余儀なくされた何千もの住民の悲劇の証。禁止されているにもかかわらず閉ざされたゾーンに戻って住む年老いた貧しい人たち。訪れたことのない者には分からない。そして、一度訪れたら遅かれ早かれまた戻りたくなる。

より少なく、しかしより良く  (レーニン)

2011 年5月ウクライナ ディティツキー (Dytiatky) のチェックポイント−−−立ち入り禁止区域への玄関口−−−にて

パスポートを手に我々は車を待つ。こっそり数枚の写真を撮る。やがて警官があらわれ、パスポートをチェックし許可証と丹念に照らし合わせる。張りつめたような空気。間違いの一つ、小さな記載違いでもあればこの旅は終わりだ。ようやく警官がおもむろにうなずき、まるでうっかりそうしてしまったかのようにゲートを上げる。出発だ。皆すぐに車窓からどんどんと変わりゆく景色を眺める。両脇に高い木が植えられているまっすぐな道の先にこれから数日を過ごす場所が待っている。途中、一台の車にも一人の人間にも出会わなかった。人気を感じさせるのは新しい舗装道路とその上の白いラインだけだ。このラインの先に目的地がある。人がいたのは町に入ってからだった。ほとんどが男性。軍服を着て皆同じに見える。その中の一人がタバコを手にこちらを見る。ここがチェルノブイリだ。

しばらくして改築なった博物館の横を通る。ほんの数週間前まではウクライナ産の安い酒しか売ってないソ連時代から残る古い建物だった。今では壁に再生のシンボル、コウノトリが描かれている。道の反対側には大通りの真ん中に大きい公園ができ、小道の両側に十字架が並んでいる。その一つ一つに放棄された町の名前が記されている。一つ一つが何百、何千の移住を強いられた住民の悲劇を物語っている。

「みんなメドヴェージェフとヤヌコーヴィチのためさ」通りすがりの男がタバコを道ばたに捨てて教えてくれる。「この真新しい道路は大統領の訪問のために特別に作られたのさ。ここに来て、見学して、いろいろと約束して、それきりだ。いつもそうだ。」
「本当に?」驚いたふりをしてみる。ポーランドを法王ジョン・ポール2世が訪問した時のことが思い出される。法王の通る道に面した壁が修繕されたが予算ならびに時間的圧迫のため、一面だけということが多かった。
「もちろんさ」彼は次のタバコに火をつけながら笑う。「これはみんな観光客のためさ、、、いや、客の金のためか。4月には去年一年と同じぐらいの観光客がやってきたよ。EURO2012があるからまだ何百、何千の客が来るよ。」

会話はそこで打ち切る。我々はプリピャチへと新しいアスファルトの匂いのする道路を走る。プリピャチが昔のままで残っていることを願いつつ。

芸術家の想像力を刺激するのは

深い緑色の草と木々。野草の花。空の青。鳥の声がひびき木の葉がささやく。汗ばむ陽気。プリピャチは夏だ。
こののどかな風景も、木々に埋もれる廃墟となった建物を目にしたとたん現実に引き戻される。割れた窓ガラス。壊れたドア。そして何より人気のなさ。植物が至る所に力強くあふれる。人の支配がなければあたりは自然の状態に戻る。何百年も忘れ去られていたカンボジアのアンコールワットのように。はびこる植物がすべてをのみこんでゆく。不自然に高い木々が建物を覆い隠し、植物はだんだんと、しかし確実に、あたかも先住の存在を主張するように家々にしのびこんでゆく。この地では時の流れが最大の敵だ。春の恵みの雨が植物の成長を促し湿気が屋内に残されたものを朽ちさせてゆく。町はゆっくりと崩壊する。そこに内在する放射性セシウムのように半減期を迎えている。

同様に人々もだんだんと大惨事とその多大な影響を忘れていく。年を経るごとにチェルノブイリの記憶は薄れていく。忘れられ、貧しい生活に追われていく人々は記憶というもっとも貴重なものを持ったまま消えてゆく。それは事故の最後の証だ。記憶を次世代へとつなげる希望は、チェルノブイリをテーマとした感情をかき立てる音楽であり、美術であり、文学である。この悲劇的であると同時に大変貴重な場所はミュージシャン、写真家、映像作家、画家など多くのアーティストにとって、未来の世代のために時間を止めたいと思っている全ての人にとって、創作力をかき立てる源泉だ。忘れさせてはならない。我々の訪問が少しでもその役に立つように願う。

カーチャ・リンドブロム 4月の行進 アクリル

カーチャ・リンドブロム 苦痛の兆候 アクリル

カーチャ・リンドブロム グレゴリー・クメルの記憶 鉛筆

カーチャ・リンドブロム ヴァレリー・ボスパロフ 鉛筆

カーチャ・リンドブロム バイオロボット フェルトペン

カーチャ・リンドブロム 4号炉のエンジニア フェルトペン

レーニンは永遠に

ディテール。まさにディテールが最重要だ。初めてゾーンを訪れる人はたいてい見落としてしまう。時間に追われて立ち止まって考えることができない。せき立てられていると、限られた時間で多くのものを見ようとしてとにかくそこら中で何千もの写真を撮ることになる。帰宅してからゆっくりと時間をかけてすべてを見ようなどと、実際にできもしないくせに考えるのだ。その結果何の主張もない空虚なイメージの集合としてしか訪れた土地を思い出すことができない。

訪れた地とそこで見つけたものの意味、その歴史を理解するのには多くの時間が必要だ。そうすればディテールに気付くことができる。訪れた土地や建物、住人と交わした会話の中にディテールを見つけることができる。そのおかげで悲劇全体の背景を理解できる。ディテールがなければ住民の生活はまったく違って見える。

イデオロギー。ここプリピャチの住人だけでなく、ソビエト連邦全て、そしてポーランドまでに計り知れない影響を与えた、ウラジミール・レーニンたちによって構築されたイデオロギー。抑圧、階級差、搾取を撤廃し、社会統制、共有財産、富の公平な分配を構築しようとしたレーニンの言葉と行動。そのイデオロギーのおかげでレーニンは存命中に英雄となった。我々の再訪するプリピャチでも。

プリピャチの至る所でレーニンに出会う。政府機関や文化施設の壁にはもれなく彼の姿やイメージが描かれている。オフィス、工場、映画館、劇場、学校、幼稚園。どこにでも。大人も子どもも彼の写真を撮り、絵を描いた。銅像が建てられ、歌や詩が作られた。勲章や賞が彼の名の下に与えられた。彼の名をつけた学校、公園、町までもが存在する。レーニンの死後、党がその人気と権威をプロパガンダに利用したのは当然だ。それはここプリピャチでも同様だ。

V.I.レーニン:赤軍創設者ならびに指導者

„レーニン

我々のゴール−−コミュニズム

社会主義ゲームの勝利−−1982

労働に栄光あれ−−USSR(ソビエト連邦)

NO、ソビエト連邦−−勝利

科学、芸術、労働、平和

上:党の行く所に成功あり、勝利あり 下:党とコムソモル−−結束!(筆者註:コムソモルはソ連共産党の青年組織)

時は過ぎゆく

自由にゾーンを訪れ、ディテールを観察したとしても、この土地の歴史を知らなければ多くを理解できない。本で読んだりテレビで見たりできる歴史ではなく、事故の目撃者や当事者から直接聞いた歴史。たやすく改ざんされる統計や偏りのある報告ではなくゾーンの住民や作業員との会話から直接得られる情報。たとえばゾーンの責任者の協力で会えることになった医者の話がそれだ。

ガリナ・ピアツソヴァ64才。破局事故が起きた時、プリピャチの小児科で働いていた。現在でもゾーンの作業員に予防的な検査を行って、人々に尊敬されている彼女は皆に恐れられる存在だ。彼女の判断がここで働く者の将来を左右することにつながる。医者のサインがなければゾーンで働くことができなくなる。他所よりも高い給料のもらえる仕事を失うことになる。

チェルノブイリの診療所で我々を待ち受ける彼女に会うのが不安だった。彼女がプリピャチに同行してくれるか分からなかった。なんといっても彼女にとって人生の最高の時をすごした強い愛着のある場所だ。彼女の心に深い傷と悲しみをもたらしたあの事故のことを思い出したくないと拒否されるかもしれない。

さいわいなことに白衣をまとった彼女は車に乗るとすぐに語り始めた。あまりに興味深い話で、プリピャチに着いたことにも気付かなかった。語り始めるととどまることを知らなかった。当時の記憶とイメージがいきいきとよみがえり、無意識のうちに彼女は真実を話していた。未だ生々しい記憶で感情が高まり彼女は涙した。

医者との会話−−プリピャチの病院にて

ここにいたのだ

涙ぐむ医師:
後ろのサイン『女性を、母親をたたえよう。その愛は普遍でありその乳は全世界を養う』 (マクシム・ゴーリキー)

ガリナの話はこちら – HERE

道ばたでピクニック

ガリナの話は長く私の記憶にとどまるだろう。感情にあふれ、細部までつまびらかな自身の体験。大惨事の現場を見たこともない科学者の書く無感情で理解しがたい用語や数字を使った報告書とは雲泥の差だ。

二つ目の出会いはまったく違う展開になった。偶然出会った二人のウクライナ女性が一人の働いていた幼稚園ともう一人の住んでいたアパートを見せてくれることになった。

思いがけずこれが道ばたでのピクニックへと展開した。見捨てられた家を探し出して、一人が、嬉しさを表すためにだろうか、あるいはこの重要な時を祝うためにだろうか、薄い茶色の液体の入ったガラス瓶と小さなビニール袋を取り出した。パーティでも始めるのかと思ったらそのとおりだった。茶色の液体はのどを焦がすような自家製のウォッカで、袋の中からは肉や野菜の酒の肴が出てきた。「これこそウクライナ流のおもてなしだね」そう言って私は一杯目を飲み干した。

道ばたでピクニック

数杯やった後、我々は幼稚園に向かった。中で一番心を打たれたのは子どものおもちゃだった。人形、ミニカー、テディベア。おとぎ話のたくさんのった本だな。その横の小さいテーブルには子どもたちが塗り絵をしていた本がまだ出しっぱなしだ。あちこちに鉛筆が落ちている。となりの部屋では子どもたちが遊び疲れたときや昼食の後の昼寝に使っていたたくさんのベッドが錆び付いている。

『金の鶏』幼稚園

自分で見つけなければ

今回の旅ではコミュニストのイデオロギーやプロパガンダの跡を探したり昔の住人と会う以外にも目的があった。

郵便局

要するにここは町のど真ん中に位置する郵便局、電話、電報局、公衆電話のあるテレコミュニケーションセンターだ。中には何の機器も物も残っていないので面白味はないように見える。何百人もの日帰り旅行者が訪れ、面白そうな物は全て持っていってしまった。残っているのは面白くもない書類、レシート、未記入の用紙など。何キロもの不要な紙だ。

「だから面白そうな物は何もみつからない」ここを再訪して思った。しかし今回はもう少し気を入れて探してみることにした。そしてその努力は実った。少し時間をかけてみたら実に興味深い物がみつかった。今まで残っていたのが不思議な物だ。真新しい、きれいな絵はがき。包装されたままだ。50枚一束でビニール紐でくくられている。

左のハガキ:「10月革命の母国万歳」 右のハガキ:「偉大なる10月に栄光あれ−−1917」

「10月革命万歳!」

ハガキ:「10月革命万歳」
「5月9日−−戦勝記念日」

郵便局の中の壁画

この報告が読まれる頃、ハガキはもうすでになくなっているに違いない。すぐに見える所に置いてきたから旅行者のポケットに入れられて消えているだろう。

フラッグ・デー

DUGAモスクワの目として知られた超水平線レーダー。これをじっくり見て回るのはほとんど不可能だ。くるくる変わるゾーンの管理者のせいで、邪魔されたり、必要な許可証を得ることができなかったりする。新しい管理者が来るということは、新しいルール、制限、費用(上がるばかり)が適用されるということなのだ。今回はラッキーだった。元職員のおかげで門は開いており、広大なレーダー施設と管理棟に隠されていた秘密が明らかになってきた。

スターウォーズ−−チェルノブイリ2号機コンプレックスの本館

散らばったラジオ、テレコミュニケーション機器

メインルーム−−コントロールルーム

テレコミュニケーションのブース

本館のホール

秘密の一つは、レーダーの将来だ。バラバラにされてスクラップになるという噂がすでにあった。アンテナの下の方の小さな部分に切り取られたあとが見て取れる。この美しいユニークな構造物が永遠になくなってしまうようだ。しかし二つの独立した情報源に確認したところレーダーは売られた(もしくは近日中に売られる)ということだ。日本に。幸いなことにスクラップにはされない。テレコミュニケーションアンテナの土台として使われるそうだ。称賛に値する決断だ。世界的にユニークな面白い構造物が残されることがやっと決まったのだ。

今回、私はアンテナの上に登り、最高の機会を待って過去の旅で持ち歩いていたある物をやっと取り付けることができた。もうすぐ日の丸がここに揚がるだろう。しかし今日の所はポーランドの国旗だ。

アンテナの上に旗を立てる

アンテナの上で黙とう(休憩でもある)

下から見る

他にない複雑で規則正しい構造

祖国の栄光のために

プリピャチに射撃練習場があるとはだれが想像しただろう。それも小学校の地下にだ。ゾーンにはまだまだ多くの秘密があり我々を驚かせてくれる。

となりの部屋を見ないことにはイデオロギーの一部としての射撃練習場の意味はわからない。二列のベンチが並んだ狭い部屋の前面には黒板。両脇に赤いプロパガンダ用のポスター。ここで民間防衛のトレーニングが行われていた。この部屋でロシアの若き愛国者の教育が行われたのだ。

上級生はここで民間防衛、軍隊に対する防衛方法、救急医療などの授業に参加した。武器の種類、軍隊の規則、地形図などの軍事情報も教えられた。実際的なレッスンとして射撃訓練があった。

学校の地下のレクチャーホール

ポスター:ソビエト連邦に栄光あれ

射撃訓練場−−開口部の向こうから撃つ

射撃訓練場

国家には音楽が必要

ウラジミール・レーニンは文学や芸術を政治やイデオロギー、そして教育の目的に使うことができると信じた。彼の後継者たちも引き続きソ連の才能−−詩人、歌手、俳優、音楽家、画家−−を手厚く保護した。文化施設も多く建てられた。プリピャチでも。文化センター、音楽学校、映画館に劇場。その影響は今でも多くの見捨てられた楽器に見ることができる。一番大きい物が一番原形をとどめている。ピアノとグランドピアノだ。大きく重いので、持ち出して売るのが困難だ。盗人には無価値なのだ。

25年間静かに眠っていた。ほこりをかぶり、黄ばみ、音の出ないものも多い。時間と湿気のままにだんだんと朽ちてゆく。以前見つけた数十に加え新しくまた見つける。今まで行ったことのない区域を歩いてみたらピアノ店があったのだ。

ピアノ店−−15台

タービン室

原子力発電所のブロック5と6にはすでに行ったことがある。だから今回はそのとなりのビルも見てみた。一番大きいのはタービンホールだ。数百メーターある部屋に500MWのターボ発電機が2基とその他のさまざまな機械が入っている。中に入ると、気温が10度ぐらい低く、息が白く見えるぐらいだ。暗い。タンクやアセチレンバーナーがあちこちに落ちていて、もとのまま残っている物はあまりないのだと気づく。そばのホワイトボードには「タービンホール エネルギーブロック5 1986年完成」と書いてある。反対側にはコンデンサーなどの大きな機械が未だ原形をとどめている。

タービン室−−入り口

蒸気復水器

最後に訪れたのは増設中だった未完成のエリアだ。最も重要な場所の一つだ。この原子力発電所がなければ近接の人口5万の町プリピャチは存在しなかった。そして30万人の住人を移住させた悲劇も起こらなかったのだ。

ここを訪れるたび原子力エネルギーに対する恐れと謙虚さを新たにする。本やテレビで見るよりも実際に見て感じることの大切さを教えられる。真実の歴史を学ぶことを。職員、作業員、一般住民といった実際の事故の体験者の語る歴史の大切さを。

ここを訪れるたび未だ知らなかった過去へと旅をする。それは新しい土地、人々、状況を知る機会だ。悲劇の影響について私自身の意見を構築する機会だ。

ゾーンを見捨てることはない。私はまたここに戻るだろう。

エピローグ

日本 福島 2011年6月−−地震、津波から3ヶ月

同レベルの大惨事となった福島はなぜチェルノブイリと同じ扱いを受けていないのだろう。何テラベクレルという放射性物質が飛び散り、20キロゾーンが汚染され立ち入り禁止になり、移住を余儀なくされた何千もの人や作業員がいる。すでに石棺の話も出ている。

違いは何だ?

チェルノブイリでは1基の原子炉炉心が問題となった。福島では3基だ。

人々をわざとミスリードして安心させるような情報の多くは、真実ではなかったことがすでに明らかになっている。現状と情報を前にして、科学者たちは事故は大したことはないとか、原子炉は最新式で汚染は少ないという見解を撤回している。IAEA(国際原子力機関)でさえ福島の大事故は少なくともチェルノブイリと同程度だ(ということはそれ以上ということもありえる)と明言した。

事故の数時間後にはすでに1号機で、そのすぐ後に2、3号機でも炉心のメルトダウンが始まった。そして3基とも激しい水素爆発につながった。3基の原子炉すべてで燃料が圧力容器の鋼鉄を燃やし原子炉格納容器に到達した。一基では漏れがあり地下水と大気中に放射性物質をまき散らしている可能性がある。そのうえ3号機ではほかの原子炉で使用されていたウラン燃料より遥かに危険な使用済みMOX燃料のタンクが損傷した。大惨事を回避するために溶け落ちる燃料を冷却するための水がひっきりなしに投入された。

爆発と多数の漏れ、制御できない放出や意図的なベントによって、大量の放射性物質が大気中に放出された。数日前、日本の原子力安全保安院は以前の予想をあらため、倍の放射性物質が地震後わずか1週間で放出されたと発表した。同時に現在の予想も誤差の範囲が非常に大きいと警告した。現在までの放射性物質の放出量はチェルノブイリ以上ではないにしても、少なくとも同等であるとしている専門家が多い。

1号機の最新のモニタリングでは前代未聞の4シーベルトを記録した。数十キロ以上離れた所でも放射性物質であるセシウム、ストロンチウム、プルトニウムがあちこちでみつかった。現在太平洋への汚染水の漏洩を遅らせるために遮水壁が作られている。

20キロの立ち入り禁止区域外でも新たに放射性物質のホットスポットがみつかった所では避難する人が出ている。日本国民は我慢の限界に来ている。東京、そして日本各地で原発反対ならびに大惨事に対する対策が後手に回る政府に反対する1万人規模のデモが行われている。

「福島のメルトダウンで、自然災害、不完全な技術、人的ミス、は予測不可能であり、どんな予防策も役に立たないということを今一度見せつけられた。」これは『ゾーンに一人』のカバーに書かれた言葉だ。原子力というリスクを冒す価値があるかどうかを自分で考えたい人全員に見てもらいたいフィルムだ。

フクシマとチェルノブイリの情報を日本に伝えるのを手伝ってくださいませんか。私のほかの記事の日本語訳(英語またはポーランド語から)にご興味のある方 がいらしたらぜひご連絡ください。連絡はメールでarek@podniesinski.pl まで。よろしくお願いします。​

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