フクシマ

メード・イン・ジャパン

7年前私がチェルノブイリを初めて訪れた時、どこか別の場所でまたこのような災害が—もちろん日本も含めて— 再び起きようとは思いもしなかった。誰が何と言おうと原子力は安全で、何らかの不具合が生じにくいテクノロジーと信じていた。だから、このような災害が再び将来起こることはないと信じていた。科学者たちも、原子力発電所の建設者たちも、そしてどこの政府もそう言っていたのだから。

でも、それは起こってしまった。

福島へ取材に行く準備をしている間、正直、自分は、いったい何を予測し期待していいのか分からなかった。言葉、文化、伝統や習慣も全く違う土地。あの事故から4年経った福島で、一体自分は何を見ることができるのだろう?何か、チェルノブイリと似たものに遭遇するのだろうか?

災害

この写真によるドキュメンタリーは、福島の災害に関する出来事をもう一度説明しようというものではない。1986年4月26日に起きた出来事と同様、ほとんどの読者が今回福島で発生した災害についてよく知っていると思う。しかしこの災害をさらに考えていく上で非常に重要な点をここで言及しておきたい。それは、福島第一原発で発生した事故の責任は、地震でも、津波でもなく、人間にあるということだ。日本政府の東京電力事故調査委員会によるレポートからも、この点は疑いの余地がない。今回の福島原発事故は十分に予測でき、それゆえに回避可能な事故だったということだ。チェルノブイリの事故と同様、福島の原発事故はテクノロジーではなく、人間に責任があったのだ。

この二つの災害には実に多くの共通点があることを、この写真ドキュメンタリーを通して知ってもらえたらと思う。

放射能か、それとも避難か

福島原発の事故直後、まず原発から3㎞圏内に住んでいた人々、そして後に20㎞圏内にいた住民たち約16万人が強制避難を命じられた。事故による大混乱、そして非効率な放射能レベル測定システムが多くの家族を離れ離れにし、放射能汚染がよりひどい場所へと避難させる結果を招いた。原発事故から数ヶ月、数年と経つにつれ、放射能の数値測定はどんどん正確さを増し、新たな境界線が引かれた。また放射能汚染度、帰還可能のレベルによって、区分されていった。

事故から4年経った今も、12万人以上の人たちが自宅へ戻れずにいる。そして、避難者の多くが、事故後に特別に建てられた仮設住宅に住み続けている。チェルノブイリの事故でもそうだったように、避難勧告を無視してすぐに自宅に戻った人もいれば、一度も避難しなかった人たちもいる。

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2011年から2015年にかけての区域分け境目の変化

赤色で示された地域は、放射能汚染が最も高い市町村を示している。この地域には特別な許可がない限り、入ることはできない。高度の放射能レベル(> 50 ミリ・シーベルト/年)のため、この赤色の地域では、何の復旧作業も汚染除去も行われていない。関係当局の予測によると、この地域に住んでいた人々は、まだしばらくは —もしくはずっと— 自宅へ戻ることはできないだろうということだ。

オレンジ色で示された地域は、赤色の地域に比べると放射能汚染が低いとされている。しかしこの地域も人間が生活することは出来ない。ただ、放射能レベルが年間20-50 ミリ・シーベルト以下のため、このオレンジ色の地域では汚染除去作業が行われている。住人たちは一時帰宅は許されているが、戻ってここでずっと生活することは許されていない。

一番放射能レベルが低いとされている地域(< 20 マイクロシーベルト/年)は、緑色で示されている。この地域の汚染除去作業はすでに終了し、現在は清掃作業の最終段階に入っている。この緑色の地域に関しては、まもなく避難勧告が解除される見通しだ。

除染

この地域に入ってすぐに気づくのは、大規模に行われている除染作業だ。2万人に及ぶ作業員が土壌のすべてを徹底して除染している。土の中で最も汚染された表面の層を取り除き、それを袋に詰め、そして何千とある廃棄場へと運んでいく。汚染された土壌が詰まった袋は至るところに置かれている。廃棄場に置かれたこれらの袋は、永遠に福島の風景の一部となって残るだろう。

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汚染された土壌が入った袋の廃棄場は、たいてい耕地に作られている。場所を確保するために、これらの袋はひとつひとつ重なりあい、何層にもなって置かれている。

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何百万もの袋。上空からの撮影。

汚染除去作業は、汚染された土壌の除去だけでは終わらない。放射能に汚染された町や村にある道路や家屋も、ひとつひとつ念入りに除染していかなければならない。全ての建物の壁や屋根にスプレーをかけ、汚染箇所をこすり落としていく。これらの作業の規模とその速さは賞賛に値するだろう。除染作業に取り組む作業員たちの真剣な姿から「住人たちが一日でも早く戻ってこられるように」という思いが伝わってくる。

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何千とある放射性土壌の袋が捨てられている廃棄場のひとつ

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手作業で建物全ての屋根をひとつひとつ清掃している

しかしながら作業員たち(政府が彼らの雇用資金を負担しているのだが)が達成しようとしていることが、必ずしも住人たちが求めていることとは限らない。汚染された土壌が再利用されるわけではないし、また放射能汚染地域から運び出されるわけでもない。ただその町から運び出されるというだけで、多くの場合は郊外とも言えない近場に移されるだけだ。この高価な作業は単に問題を元の場所から別の場所へと移しているだけであって、住民たちが間もなく戻ってくる町の外にとりあえず運び出しているにすぎないのだ。

放射性廃棄物が最終的に何処にいくのかは、まだ誰にも分からない。特に自分たちの住居近くでの長期的保管施設建設に反対している住民にとっては、この問題の解決策など到底受け入れられるものではない。住民たちは廃棄物保管という目的で、自分たちの土地を売ったり貸したりするつもりもない。なぜなら、誰も「30年以内に廃棄物が全てなくなる」という政府の主張など信じていないからだ。一度引き受けたら、廃棄物は永遠に自分たちの土地に残ることを恐れているのだ。

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住宅ビルのすぐそばに建てられた、放射性土壌の詰まった袋の廃棄場のひとつ

深い森林地帯や山地がある多くの地域では、放射能汚染除去が全く出来ない状況にある。このような地域で除染できるのは、家屋やその周辺、そして道路に沿った10メートルの細長い区域だけである。この事実は住民だけでなく、科学者たちをも悩ませている。なぜなら、もし大規模な豪雨が起こったら、大量の雨が山に溜まっていた放射性同位体を一気に押し流し、森林や人々の居住地域を再び汚染してしまうからだ。火災の場合も同様だ。風が放射性同位体を近くの街へと簡単に運んでくるのだ。これらの懸念は、決して根拠のないものではない。なぜならまさにこういった事象が、事実チェルノブイリでこれまでに少なくとも二回起こっているのだ。

これらの状況を考えると、政府や役所に不信感を持っている住人たちが放射能汚染を恐れて自宅へと戻りたがらないのは、決して驚く反応ではない。赤色の区域に住んでいた被災者を対象に行ったアンケートでは、自宅に戻ることを望んでいると答えたのはたったの10パーセント、また65パーセントの回答者が自分たちの住んでいた街にもう戻るつもりはないと答えている。事実、彼ら彼女らは何のために戻らなければならないのか。どんなに将来に楽観的な考えを持っている人でも、仕事もなく、公共設備、医療が不足している状況では、帰還することなど考えることは出来ない。そして時間が経てば経つほど、捨てられた家屋が朽ちていくと同様に、住人たちも年をとり、帰還することは益々難しくなっていく。これらの街はこうやって永遠に捨てられ、荒廃していくのだろうか。

住人たちは決して話そうとはしないが、帰還したくない理由は他にもある。それは、避難者たちが受け取っている補償金と、あらゆるタイプの補助金の受給、そして減税待遇である。道義的補償という名目で、全ての避難者は10万円(約850ドル) 受給している。避難者たちの中には、政府に対し抗議活動を行っている人たちもいて、緑色とオレンジ色で示された地域の住人に対する補償金の停止を考えている政府に対して訴訟を起こそうという動きもある。日本政府は独断で年間の放射線被曝最低許容レベルを、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまで引き上げた。そうすることで自分たちを強制的に帰還させようとしていることに住民たちは不安を抱いているのだ。

立ち入り禁止区域

私は敢えて、原発事故から4年が経ち、地震や津波による瓦礫撤去作業がほぼ終了した福島を訪れた。なぜなら私は原発事故そのものとその事故が環境や避難住人たちに与えた影響、そしてチェルノブイリとの比較に焦点を絞りたかったからだ。私がもっともこの目で見たいと考えたのは、オレンジ色区域、赤色の区域、そして汚染が最もひどく完全に荒廃した地域だった。この完全に捨てたれた区域では、何の清掃・除染作業も行われていない。ここではまるであの事故が昨日起こったかのように、時間の流れがあの日から止まったままだった。

これらの地域を訪れるには、それぞれの地域に応じて別々の許可証がいる。そして許可証は、その地域を訪れるのに何らかの納得のいく、正式な理由を提示できた者にしか与えられない。ゆえに、観光客など入ることは決して許されず、ジャーナリストでさえもなかなか許可証を得ることが出来ない。メディア報道に神経をとがらせている関係当局は、許可証を申請したジャーナリストたちに、福島への訪問理由、どのような記事を書くつもりか、そして福島の災害にどのような考えを持っているのかなど質問してくる。彼らは我々ジャーナリストたちが事実を歪曲し、客観性に欠けた記事を書くことを警戒しているのだが、もっとも恐れているのは、自分たちの行動が紙面で批判されることだ。

私はポーランドにいる間に、この立ち入り禁止区域に入る手段を模索し始めた。まず福島に関する本や記事を書いた著者やジャーナリスト、同僚たちにアドバイスを求めた。彼らは自分たちの友人たちにコンタクトを取ることを薦めてくれ、そしてその友人たちがまた別の友人たちへとつなげてくれた。しかし、実際に私がようやく適任者とコンタクトを取れたのは、福島に着いて二週間後のことだった。私がこれまでに何度もチェルノブイリを訪れて培われた知識、そこで撮影してきた膨大な量の写真のおかげでこれら日本人の信頼、協力を得ることができた。

許可証の発行を待っている間、オレンジ色の警戒区域にある町村を訪ねた。そして二日間かけて、ようやく松村直登さんの自宅を見つけた。松村さんは原発事故後、赤色の区域と指定された場所に捨てられた動物たちの世話をするために不法にこの地域に戻ってきた人物である。彼は自分が戻って来た理由について、飼い主たちが放射能から逃れるために町を出て行った後、捨てられた牛たちがうろうろと、誰もいなくなった道路を徘徊している姿が見るに耐えられなくなったからだと話してくれた。そしてこれらの捨てられた動物たちがどのように餓えて死んでいったか、また当局の手によって殺され、リサイクルされていったかを話してくれた。これらの動物たちがいったい何をしたから、このように理由もなく殺されなくてはならなかったのか?そう松村さんは問いかけ、彼が不法と知りつつこの警戒区域へ戻ってきた理由を説明してくれた。

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著者、松村直登さん、松村さんの動物たち

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松村さんは、見捨てられたダチョウの世話もしている

松村さんに、私がチェルノブイリを定期的に訪れていることを伝えると、彼はすぐさまいろいろな質問をしてきた。質問する側が、逆に質問される側へとなってしまった。松村さんは、チェルノブイリではどのように避難や除染作業が行われたのか、そして放射能レベルはどのくらいなのか知りたがった。彼の質問はどれも詳細かつ具体的で、自然に私たちはチェルノブイリと福島の放射能レベルの比較などの話をし始めた。松本さんが放射能に関する専門用語や問題に詳しくなったのは、福島の災害のせいだというのは明らかだ。しかし、時間はあっという間に過ぎていき、松本さんは彼自身の任務へと再び戻っていった。私たちは別れる際に、秋にもう一度会う約束をした。

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松村直登さんの自宅

今でも、オレンジ色の警戒区域に長時間滞在することは禁じられている。住人たちは日中の間の少しの時間だけ戻ることが許されているが、この区域で人の姿を見ることは殆どない。元住人のほとんどはこの警戒区域に戻ることを考えていないし、また彼らが戻る場所自体もすぐになくなってしまうであろう。多くの棄てられた家々、特に木造の家屋は、破損状態となっている。ただちに修復作業をしなければ、これらの家屋たちは財政的にも修復が不可能となり、やがて朽ち果てるだろう。もしかすると家屋の自然老朽化は、もう戻って来ないと決めた元住人たちが意識的に選択したことなのかもしれない。

若い住人や子供がいる家族は、震災後すぐに福島を去った。より良い生活・将来を確保するため、彼らは東京や他のもっと大きな街へと移って行った。一方で、ここに何十年も住んできた年老いた住人たちは、土地への愛着から故郷の近くに建てられた仮設住宅に住んでいる。中には仮設住宅から親戚の元へと移った人々もいるが、相手側の重荷になることを恐れてこの小さな部屋二つに台所だけの仮設住宅に戻って来ている。

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ノザワ・ヨウコさんが、仮設住宅のご自宅へと招いてくれた。野沢さんご夫妻は避難中あちこち転々とした後、この仮設住宅へと移り住んできた。プライバシーを尊重する日本人にとって、他人を自宅へ招くというのは信用の証である。私はこの招待を非常に光栄なものとして受け止めた。

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ヨウコさんのご主人、ノザワ・コウイチさん。仮設住宅の部屋にて。

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食事の支度をしている様子

浪江町

許可証を受け取って一週間後、ようやく立ち入り禁止区域にある三つの町のうちのひとつ、浪江町に入ることができた。町は完全に無人地帯となっていたが、信号はまだ動いているし、道路の電灯も夕方になると点灯する。パトロール中の警察の車が、誰一人と歩いていない街にも関わらず、赤信号では必ず停車する。警察の車が我々の車の横に止まり、許可証を入念にチェックする。

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検問所

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酒類販売店

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捨てられた自転車

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パトロール中の警官

我々の取材に、自分たちがかつて住んでいた自宅を見せたいという三人の浪江町の住人が同行してくれた。彼らの家は、地震によって何らかのダメージを受けたわけではない。また海岸から遠いところにある彼らの家は、殺人的な津波による被害を受けたわけでもない。ただ放射能を含んだ大気が、彼らに住み慣れた家を棄てさせ、避難することを強制したのだ。

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タイジリ・ユキコさん。避難する前に住んでいた自宅を見せる。

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自宅の中の様子

津波による影響を確かめるため、我々は海岸沿いの町に向かった。そこでは、全ての家屋や建物が破壊されていた。震災から4年経ち、破壊された多くの建物はすで除去されたにも関わらず、まだ瓦礫除去作業が続いていた。壊れた建物の後ろにコンクリート建てのビルがひとつ建っていた。津波の破壊力にも耐え抜いたのだ。その建物は東京電力の資金で建設された学校だった。ここの在校生たちは近くの丘に避難したため、幸運にも津波に呑み込まれることなく生き延びた。

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津波を耐え抜いた小学校は、海岸からたった300メートルしか離れていなかった。校舎の塔にある時計は、全ての教室に残っていた時計と同様、津波が来た時間で停止したままだ。(その瞬間、電力が全て落ちている)

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津波後に残された廃墟。写真は、小学校の観測塔から撮ったもの。

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捨てられた車両たち。所有者の承諾を得るまでは、これらの車を運び出すことが出来ないそうだ。後ろにある丘陵に、小学生たちは避難した。

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音楽教室

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学校に残されたコンピューター

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子供たち使用していた楽器

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津波を耐えぬいた校舎の一階にあった教室のひとつ。黒板の下に津波の高さを示す跡が残っている。教室の黒板には元住人や、在校生、学校の職員たちが、被災者を励ますために書いた言葉がならんでいる。「もう一度生まれ変わる」「頑張れ、福島!」「東電のバカやろう」「ソフトボールではライバルだったけど、いつも心は一緒だよ!」「必ず戻ってくる!」「こんな状態だけど、これも全て生まれる変わるための始まりなんだ」「請戸小学校出身の孫を持てたことを誇りに思います」「福島は強いぞ!」「あきらめるな、生き抜こう!」「請戸小学校のみんな、負けるな!」「せめて海が私たちの生活をまたもとに戻せれたら」「あれから二年経ったのに、請戸小学校は2011年3月11日と変わらずにいる。これは生まれかわるための始まりなんだ」

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請戸小学校の子供たちが受賞した、メダルやトロフィー

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体育館

最後に吉沢正巳さんの農場を訪れた。吉沢さんも松村さんと同様、棄てられた動物たちの世話をするためこの農場へ戻って来た人だ。しかし吉沢さんの話には、ある意味もっと興味深いものがあった。彼によると、原発事故後すぐに、彼の牛たちの体に奇妙な白い斑点が現れ始めたというのだ。吉沢さんはこの斑点の原因が、牛たちが食べている放射能汚染された草にあるのではと考えた。そこで彼はこの事を公にしようと、報道関係者に連絡を取ったり、牛たちを連れて国会の前で抗議活動をしたりしたこともある。しかし、定期的な牛の血液検査とその費用の負担以外は、誰一人この白い斑点のさらなる原因究明のための検査費用を申し出てはくれない。

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吉沢正巳さんの牧場には、現在約360頭の牛がいる。

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皮膚に斑点が現れた牛たちの一頭。

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斑点がある別の牛。牛舎内にて。

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夕暮れの浪江町。完全に無人地帯になっているにも関わらず、信号と街灯は今も動いている。

双葉町

浪江町の許可証を受け取ってから一週間後、立ち入り禁止区域にあるもうひとつの町、双葉町へ入る許可がようやく降りた。双葉町は廃墟と化した福島原発との境目にあり、立ち入り禁止区域内でも、放射能汚染レベルが最も高い場所である。あまりにも放射能レベルが高いため、この町では清掃作業も汚染除去作業も全く行われていない。そのため我々には防御服、マスク、そして放射能測定的が与えられた。

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福島第二原発の前にある検問所。後ろにあるのは、原子炉の一つ。

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双葉町の 荒廃した道路

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ゴーカートの走路

双葉町と福島原発の関係性は、距離的な近さだけではない。町の中心へとつながっている主要道路には「原子力明るい未来のエネルギー」と、原発を促進するスローガンが書かれた看板が建っていた。今となってはこの看板は、皮肉にも原発がもたらした破壊的影響を想い起こさせる。さらに数百メートル先進んだところにも似たような看板をみかけた。

 

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双葉町の主要道路のひとつにあったプロパガンダ・メッセージ 「原子力明るい未来のエネルギー」

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二つ目のプロパガンダ 「原子力郷土の発展豊かな未来」

双葉町を訪れている間、谷充(74歳)・喜久代(71歳)さんご夫婦が我々に付き添ってくれ、彼らの自宅を見せてくれた。谷夫婦は規則に従って、月に一度たった数時間だけ定期的に自宅に戻ってきている。二人は帰還してずっとまたここで暮らすことはとっくにあきらめているが、それでもこの月に一度だけ許される帰宅機会を利用している。自宅に戻ると必ず、屋根が漏れていないか、窓が風や野生動物に荒らされていないか点検をするそうだ。必要であればちょっとした修理をして、また避難先へ戻る。夫婦が長く住み慣れた自宅に定期的に戻って来る理由は、この土地と場所への愛着である。二人が産まれ育ち、そしてこれまでの人生をずっと過ごしてきたこの土地への強い思いが彼らの心の中にある。

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自宅の玄関に座る谷喜久代さん

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客間

福島原発と隣接している双葉町に滞在している間、どうしてもこの核災害の張本人である原発の姿を写真に収めたいと欲望にかられた。しかし、双葉町から原発までの道路は全て封鎖され、厳重に監視されていた。それでも、ちょっと頭を使えば原発を見ることが出来た。しかし私が最初に見に行ったのは、原発の近くにある学校だった。

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双葉町にある学校。放射能測定器が、放射能レベルを示す(2,3シーベルト/時)

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置いていかれた楽器

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置いていかれた楽器

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損傷を受けた福島第一原発

我々が立ち入り禁止区域を出ようとしたところ、放射能レベルの検閲を受けるよう求められた。

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放射能測定検閲所

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我々の順番がやってきた

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全て正常と確認される

赤色の区域付近に、偶然にも棄てられた車があることに気が付いた。車は雑草で完全に覆われていて、遠くからではいったいどのような状態であるのか分からなかった。そこで、我々は車体に近付いていったのだか、そこには他にも何台もの車が整然と並べられた状態で棄てられていた。恐らく、車が放射能に汚染されたため、避難住民たちがやむなく捨てていったのだと思った。車に近づいていった次の瞬間、放射能測定値が鳴り始め、その推測が正しいことを証明した。2016年2月3日加筆:この車は2011年3月11日以前からあったものだが、原発事故によって高濃度に汚染されていた。

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捨てられた車両のひとつ 双葉郡

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捨てられた車両のひとつ 双葉郡

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捨てられた車両 双葉郡

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現在の放射能レベルを測定中(6,7 シーベルト/時) 双葉郡

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車両が捨てられている場所。上空からの撮影。 双葉郡

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車両が捨てられている場所。上空からの撮影。双葉郡

屋内

これらの立ち入り禁止区域に滞在している間、私は取り残された建物の室内の写真を撮ることに専念した。なぜなら、室内・屋内の写真は災害が人々の暮らしや、個人に及ぼした影響の爪痕をよく映し出すことが出来るからだ。そして、それらの写真は福島の人々が失ったもの、彼らがいかに限られた時間内で避難しなくてはいけなかったかを物語っている。チェルノブイリ事故からすでに30年が経ち、これまでに数千人の観光客があの場所を訪れ、今では触れられたことのない物を探すことが困難になっている。それにも関わらず、福島で屋内の写真を撮っていると、この二つの場所の類似性がさらに顕著に現れてくる。チェルノブイリの廃墟を訪れた時、雑草で完全に覆われたテディ・ベアのぬいぐるみが横たわっているのを見た。しかし、一ヵ月後に同じ場所を訪れると、そのテディ・ベアは窓の傍に置かれていた。観光客たちが、そのぬいぐるみの写真をもっと上手く撮れるようにと、誰かが故意に移動させたのだろう。災害の現場をそのまま見せるという名目で、災害後に人工的にセット・アップされた「爪痕」は確かに存在する。しかし福島では観光客など訪れることはなく、全てが住人たちの記憶に焼き付けられた状態のまま残されている。4年経った今も、これらの場所ではずっと避難勧告が出されたあの日の空間のまま残っている。おもちゃ、電子器具、楽器、そして現金ですら、あの日のまま残されている。あのような大規模の悲劇にしか、こんなにも絶望的なシーンを生み出すことが出来ない。

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レストランの宴会場

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レストランの宴会場

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KFC

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マクドナルド

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パチンコ

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パチンコ

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パチンコのレジ

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酒類販売店

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酒類販売店

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美容室

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部屋の一室

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部屋の一室

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子供部屋

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スーパー

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スーパー

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スーパー

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スーパー

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CDショップ

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ドラッグ・ストア

終章

私は写真家、そしてフィルム・メーカーとして、自分が撮った写真を通し、ひとつのストーリーを届けるため福島を訪れた。実際に災害の影響をこの目で見ることで、原発事故が及ぼした影響、被害の規模、特に避難者たちの苦しみというものを、より正しく理解できると信じていた。センセーショナルなメディア報道、政府のプロパガンダ、原子力ロビー活動による災害の過小評価などに全く影響されることなく、写真を通して出来るだけ多くの人々に福島のグラウンド・ゼロの情報を伝えることで、今回の取材をまとめたいと思う。

今回の取材は、まだ第一歩であり、福島には秋にまた戻る予定だ。その後も、福島に戻るだろう。自分を止める理由などないのだから。福島の取材を始めたことは、チェルノブイリの取材に終止符を打つことではない。私はどちらの土地にもこれからも定期的に訪れるつもりだ。

数年前、最初に制作したチェルノブイリに関するドキュメンタリーを私は次の言葉で締めている。

「計り知れないほどの経験。これは、他のどのような出来事や経験とも比較できるようなものではない。沈黙。泣き叫ぶことも、笑うことも、嗚咽することもできず、ただ風だけが答えを運んでくる。プリピャチが、我々の世代に与えられた最大の教訓である。」

あれ以来、我々は何かを学んだのだろうか?

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立ち入り禁止区域を去る

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8 thoughts

  1. 冷静な取材に心の深いところが痛みました。これが多くの人に伝わり、原発のない時代が早くやってくることを祈ります

  2. Shocking facts, Strong messages.
    Thanks for sharing this reality in Fukushima. I have been there for volunteering with my family after the catastrophe occurred in 3/11/2011, however, wasn’t able to see in detail. Pray for all the victims of 3/11 東日本大震災 and promise that we will never forget this incident. Thank you again.
    P.S. If you wouldn’t mind, I want to translate this article into Korean.
    Sincerely, Bomi

  3. I,m thought This things never wake up.
    for the world.
    Traditional japanese ward is 惨劇
    it is means these pictures.
    Jpanan goverment is hide a real imformetion.
    Í want to real it for citizens.

  4. 謝謝你冒險拍攝照片,讓更多人知道福島的現況,
    每一張照片都讓我不禁眼紅,我們應該更珍惜地球的每一份資源
    日本、加油!

    WEINING

  5. 日本のためにありがとう。あれから5年。日本は原発を再起動させてしまいました。もう一度同じことが起こらないと理解してもらえないようです。本当に悲しい。kanki

  6. Thank you so much for your great report. I totally agree with you: The disaster could have been forseen and prevented. As in the Chernobyl case, it was a human, not technology, that was mainly responsible for the disaster.

  7. ありがとうございます。
    私は福島県でうまれて育ちました。東京の音楽大学に通う4年生です。
    私以外の家族は今も福島のいわき市で暮らしています。

    福島に生まれた私ですら知らない現実でした。
    伝えてくれて発信してくれて、本当にありがとうございます。

  8. Dear Arkadiusz Podniesinski.

    僕も2015年5月に福島に行きました。そこで受けた衝撃はずっと忘れないと思います。
    これからも、福島の現状を世界に伝えていって下さい。

    I went to Fukushima in May 2015. So received shock I think that I’ll never forget.
    In the future, please go to tell the current situation of Fukushima in the world.

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