初めて福島を訪れてからちょうど一年が過ぎた。原発事故がどれだけ悲惨な結果を生むか、汚染され破壊された土地を居住可能な状態にするためにどれだけの人力と財力が投入されるか、を改めて見せつけられた訪問だった。
チェルノブイリを知り、定期的に訪問している人間の目を通してなされた福島の立ち入り禁止区域のレポートは国際的に大きな関心を持って迎えられた。閲覧数が何百万回に上り、世界のマスコミに取り上げられ、このレポートは一時フクシマについての大ニュースとなった。 しかし私が一番嬉しかったのはこのレポートが日本でも取り上げられたことだった。それによってかなりの騒動を引き起こした(これについてはまた後日)が、同時に日本におけるフクシマの状況についての認識がどれだけお粗末であるのかにも気づかされた。
この結果、この1年チェルノブイリよりも頻繁に福島を訪問するようになったが、これも当然のことと言える。チェルノブイリの事故からは30年が経過し、ウクライナ国民の大半はこの悲劇に対しての気持ちとの折り合いがついて久しい。死者や負傷者は忘れられたし、事故30周年の時に報道は増えたが、マスコミの興味も薄れているのは事実だ。10年の歳月と20億ユーロ[約2300億円]以上をかけた末に新石棺もようやく完成に近づいており核廃棄物保管場と227ヘクタールにわたる放射能汚染地生物保護区も設置されることになっている。
福島の原子力発電所の廃炉も30年で石棺を作って終わるのだろうか。福島第一発電所の周りの汚染され住民のいなくなったところはゴーストタウンと呼ばれチェルノブイリのプリピャチのようになるのだろうか。そして、フクシマもチェルノブイリのように『ダークツーリズム』で人気の観光地になって毎年何千人もが訪れるようになるのだろうか。
一人では戻りたくない
日本人、特に政治家や役人は福島をチェルノブイリになぞらえることを好まず、このことに腹をたてる人も多い。しかしあちこちに共通点が見られる土地では、どうしても比べてみたくなる。事故の直接の原因は異なるものの、結果はほとんど同様だ。何万人もの避難者、何ヘクタールにも及ぶ汚染地、その惨事の結果を取り除くためにかける長い年月と多額の金。そして甲状腺ガンの発症。
福島の状況は時間と精神力との戦いと言える。政府は 除染をして住民を帰還させるために何億円もつぎ込んだ。ことは早急に行う必要がある。住民が希望を捨て帰還を望まなくなる前に、そして家々が倒壊したり、古くなって帰還が困難になる前に。政府は避難者への補償金もすぐに停止する意向だが、多くの元住民にとってこれが効果的な帰還の『奨励』策と受け取られている。経済的支援を絶たれれば多くの人は帰還せざるをえない。年齢の若い家庭は大多数が政府の支援を待たず、 すでに新しい生活を求めて放射性物質のない土地へ去っていった。彼らが戻らないのは確実だ。
政府にとって問題は放射性物質だけではない。避難した住民は学校、病院、店などがきちんと機能しているのか、十分に復旧していないインフラはどうなるのかと心配している。若い人が去った今、帰還先の市町村は大多数となる高齢者のニーズに対応しなければならない。しかし自分の家族や友人の中で少数しか帰還を決めていないという高齢者が一番恐れるのは孤独だ。
政府は住民に帰還させることができるだろうか。少数でも人が戻ってくれば他の避難者も戻ってくるだろうか。政府は手を尽くして土地は安全だと説得に努めている。 町、道路、電車の駅を次々と立ち入り禁止区域から解除している。しかしそれにもかかわらず住民は帰還を希望していない。最近のアンケートでは政府の方針と対象住民の間に大きなギャップが見られる。帰還を希望するのはわずか17.8%である。31.5%が分からないと答え、48%が帰還しないと答えている。
日本のチェルノブイリ
初めて福島を訪れた時、政府の命令に背いて立ち入り禁止区域に戻り、放射性物質から逃れた農民が残した動物の世話をしている松村直登さんと会った。松村さんは何百頭もの動物の世話をして、餓死の危険や農家に動物を殺処分することを強いる心ない役人から救った。彼の勇気と献身的な姿で、松村さんは福島の動物の保護者として知られるようになった。
だが、松村さんも全ての動物を救えたわけではない。彼によると三分の一は畜舎に繋がれたままだったりフェンスや犬小屋から逃げることができず水が飲めずに死んだ。松村さんはそんな場所の一つに案内してくれた。
松村さんの勇気と献身をよく思わない人もいる。遅かれ早かれ食用にされる運命だった牛を生かすために放射性物質にさらされる危険を冒す必要はないという人も多い。そういう人に、松村さんはいつもこう答える—- 食目的で動物の生命を「いただく」のと放射能災害のために不必要となった動物を単に殺処分するのは根本的に違うのだ、と。
牛テロリスト
松本さんと同様に、立ち入り禁止区域に不法に戻って置き去りにされた動物の世話をしている吉沢正巳さんも再訪した。原発事故後しばらくして皮膚に白い斑点の出た牛が現れた。吉沢さんによるとこれは放射性物質による汚染と汚染された餌のせいである。
吉沢さんの農場は原発から14キロ地点にある。この距離からだと原発の建物は見えないが煙突は見ることができる。吉沢さんが言うには、原発の爆発も聞こえたし放射性物質の入った雲が彼の牧場の上空を漂っていったのも見えた。その結果2万人ほどの浪江の住民の半数に近い人が近くの山あいにある津島に避難した。しかしより高濃度に汚染された風がそちらに向かっていたことがわかり、人々はまた逃げて行った。福島の放射能汚染によって、新しい世代の被曝者が誕生した。それまで被曝者といえば広島と長崎の原爆による被害者のことだったが、福島の原発事故の被害者も被曝者となった。検査を受けた120人の被曝者の中で、吉沢さんは浪江で3番目に高い数値を記録したという。
理解を示さない役人に反発して、吉沢さんは活動家となり彼の牛とともに抗議行動を始めた。一頭の牛を農水省のビルまで連れて行き、なぜ原発事故後に牛の皮膚に白斑が出たのかを調べるように要求した。「福島の一部を東京に持って行って抗議したんだ。牛とおれは災害の生き証人、おれの牧場は福島の被害の記録になるのさ。」
その後の原発再稼働への反対運動には吉沢さんはもう牛を連れて行かない。その代わり、ワゴン車に横断幕を取り付け、牛のオブジェをトレーラーに乗せて引いていく。
「おれは右翼より大声で叫ぶことができるんだ。」吉沢さんは言う。それを証明するかのように彼は大声を出す。「おれはカウボーイだ。カウテロリストだ。カミカゼだ!」
そして静かに彼は付け加えた。「暴力をふるおうなんて考えてない。おれたちは誰も殺さない。おれたちは攻撃しない。おれたちは政治的テロリストだ。」 その後吉沢さんは我々を実際の反対運動に誘ってくれた。営業を再開する駅に安倍首相が自ら出席する予定なのだ。
反対運動は、確かに 平穏に行われた。吉沢さんはもうすぐ首相が到着する市内を車で回った。運転しながら彼はマイクに叫ぶ。
「原子炉で火が出た時東電の社員は逃げました。火は若い自衛隊員によって消されました。自分たちで作った原発を自分たちで止められなくてどうする!」
彼は続ける。「本日、ここに首相が来ます。立ち上がって迎えましょう。美しく整えられた駅だけでなく、市の暗い面も見てもらいましょう。40年にわたって、我々は東京に電気を供給してきました。我々があったからこそ、日本の経済成長は可能だったのです。そして、今我々は苦しんでいます。原発の安全神話は過去のものです。」
首相の到着時間が迫り、群衆が大きくなると、警官と首相の警護隊が吉沢さんに近づいてきて、のぼりを下ろして立ち去るように求めた。吉沢さんはそれに従うが、ゆっくりと行動した。まるでなるべく長くそこに留まろうとするように、そして実際に首相を 迎えるまでの時間を稼ぐように。
立ち入り禁止区域
今回の取材でも福島に滞在中は、立ち入り禁止区域の訪問に最も力を入れた。禁止区域に入り写真撮影をする許可を得るのはやはり難しく、時間がかかる。しかしそれよりはるかに難しいのは、放棄された土地の持ち主を見つけ出しその家に一緒に行って中を見せてもらい悲しい経験を語ってもらえるように説得することだ。
しかし時にはすんなり行くこともある。木暮達男、和枝ご夫妻の場合がそうだった。日本のテレビ局の協力もあり、木暮さんが経営していた富岡の居酒屋に案内してもらえることになった。 小ぢんまりした店で、ご飯を食べたり酒を飲むだけでなく経営者と一緒になってカラオケを楽しめる店で、地元の客で繁盛していた。
不運なことに店のある富岡町は放射性プルームの通り道に位置していて立ち退きを余儀なくされた。これまでに同じようなバーやレストランを見てきたが、どこも雑草が生い茂り、カビだらけで、がれきや物が散乱して異臭がする。しかし木暮さんは諦めなかった。年齢にも悲劇的な経験にもめげず、立ち入り禁止区域から離れて新しい居酒屋を開いたのだ。木暮さん夫妻は立ち退いた居酒屋だけでなく、新しい店にも案内してくれた。
木暮さんの場合、ものすごく恵まれていたのは前の店の常連客がご夫妻の店を続けようという努力に力添えをしてくれたことだ。みんなが助けてくれてやり直すことができたと和枝さんは言う。店を再開することで他の避難者の人たちにもできるということを伝えたい、と。
想像を絶する災害
立ち入り禁止区域の富岡町にあった消防署も訪問した。原発が隣接しているためここの消防士たちはさまざまな緊急事態に備えて定期的に訓練をしていた。震災前にここで勤務していた鈴木直人さんが案内してくれた。消防署の中で私の目を引いたのは、大きな黒板だった。「2011年3月の活動予定です」」鈴木さんが説明してくれる。「震災のあった3月11日には何も予定は入っていませんでしたが、その前日に放射性物質に汚染された際の対応の訓練をしたんです。放射線を浴びた人々をどうやって助けるかとか、線量計の使い方とか、除染の方法を。」
しかし、例えば原子炉の冷却など未曾有の事態に直面した消防士たちにとって、現実はショッキングだった。繰り返し訓練してあった住民の避難活動でさえ効果的に行えず、期待とかけ離れた結果となることも多かった。放射性物質の拡散方向を予測するはずだったSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータは使用に不適当と判断され自治体に伝えられなかった。その結果多くの住民が汚染の強い場所に避難し図らずもさらなる被曝の危険にさらされた。
この春、役所の担当者や避難者、それに僧侶など多くの方の援助によって、富岡、大熊、双葉、浪江の立ち入り禁止区域をはじめとした地域の興味深いところをあちこち見ることができた。災害から5年が経っていたがほとんどが閉ざされたままになっており貴重な品々が放置されていた。このため場所を特定できる情報は公にしないことにする。
希望
福島訪問の最後に私はここの人たちが最も誇りにしている有名なものを見るために富岡に戻った。それは桜のトンネル—-日本で最も古く長距離にわたる桜並木の一つだ。富岡の住民にとって桜は有名な観光名所であるとか町の歴史的シンボルであるだけではない。花の美しさを愛でるだけでなく祭りや集まりが行われ、家族の会話にのぼる生活の一部である。
その自然美と力強い象徴的意味、そして日本美術に繰り返し使われてきたことで桜の木は日本の文化的アイデンティティーのシンボルとなった。桜は春—再生、復活のとき—の訪れを告げる。
日本の新生のシンボルである桜は、原子力が引き起こした皮肉な運命のために今汚染され住む人のない富岡の通りに咲いている。この町と住民は、寂しげにひっそりと咲いている桜とともに再生を果たすのだろうか。それはこの町と住民にかかっている。
アルカディウス・ポドニエシンスキ
各セクションの見出しは住民の方の言葉を使わせていただきました。
私のチェルノブイリと福島事故のその後の記録は全世界のテレビ局から注目された。その中で、日本のTBSとドイツのARDが私の福島訪問に同行することとなり、どちらの局でも災害5周年の番組として放映された。番組はこちらでご覧になれます。(CCアイコンをクリックすれば言語を選ぶことができます)
外国人カメラマンが捉えた福島の今
日本—放射能汚染とのたたかい
参考:ドイツARD「放射能汚染された土地」2016年3月12日
訳:無限遠点さま、ブログ:金吾さま、ありがとうございました。
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