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こんにちは。アルカディウス・ポドニエシンスキです。ポーランド人で写真家、映像作家として仕事をしています。この9年あまり、チェルノブイリの立ち入り禁止区域の取材に尽力し史上最大の原発事故の影響を記録してきました。
2008年にこの仕事を始めた時、3年後に同様の惨事が福島で起こり、新しい企画のきっかけになることなど想像もしていませんでした。
“Half-Life: チェルノブイリ〜フクシマ”はこの二つの惨事のもたらす結果を対比するユニークな企画です。今日はこの私の長年にわたる取材を高画質のフォトアルバムにするプロジェクトへの援助をお願いしたいと思います。
2008年から私はチェルノブイリの立ち入り禁止区域を数十回訪れ、数時間のうちに5万ほどの住民が避難させられて以来無人となったプリピャチ市を写真に収めてきました。原発から2キロ弱のプリピャチはソビエト連邦の技術と力の象徴でした。30年経った今、何千もの人々が生活していた建物は劣化し見捨てられ、安易な原子力エネルギーの使用がもたらし得る結末を教示しています。
線量計を携え、大事故が起因の放射性物質の痕跡も記録してきました。破壊された発電所の火災と戦った消防士たちが病院の地下に捨てていった衣服。あまりに線量が高くゾーン外に出せない汚染車の墓場。今も壊れた発電所周辺で見つけることのできる放射能の非常に高い溶けた燃料のかけら。
政府の命令に背き汚染された地区に戻り極めて厳しい状況下で生活をしている人々と会う機会もありました。
さらに私は破壊された4号機に立ち入りを許されたごく少数の写真家の一人でもあります。汚染の拡散を防ぐ石棺は老朽化が進み新石棺で覆われ、問題を次世代に先送りにしました。
ベラルーシ非常事態省が出してくれた特別許可のおかげで、私は隣国ベラルーシの立ち入り禁止区域も訪れました。チェルノブイリ起因の放射性物質の70%までがこの区域に降下し、 ベラルーシの人たちは最も被害を被りました。逃げる先もなく、住民は放射性物質による汚染の中で健康被害にあいながら現在も生活しています。
日本で類似した災害が発生した後、私は福島第一原子力発電所の周辺の汚染区域を訪れるようになりこの二つの災害には多くの類似点があることに驚きました。避難命令、立ち入り禁止区域、無人の道路や家屋、そして多くの住人の残していった家財道具。それらは時間の経過、手入れ不足、増加する盗難によって劣化したり失われたりしています。多くの場所に私は最初に、または唯一足を踏み入れ、写真を撮ることができました。
避難民の一時帰宅に同行させてもらったことも忘れられません。警戒心が強く簡単には心を開いてくれない気質の人たちが、未だに生活を余儀なくされている手狭でプライバシーの全くない仮設住宅にも招いてくれました。
チェルノブイリと福島の訪問をもとに、これまで2本のドキュメンタリーフィルム、十数本のレポート、何百もの写真を世界に発信してきました。その中の一枚『原子力明るい未来のエネルギー』というスローガンの下に防護服の人が立っている写真は環境保護を訴える国際キャンペーンを代表する写真として使われました。
「ゾーンに一人」の情報はこちら Alone in the Zone
みなさんの協力をお願いしたいのは、長年にわたるチェルノブイリと福島での取材の成果を集大成したアルバムの出版です。選りすぐった100枚以上の写真にポーランド語、英語、日本語のキャプションをつけたチェルノブイリとフクシマの二部構成のアルバムです。
この企画にあたって各災害において重要な鍵を握った二人、当時の首相菅直人氏とソ連邦の大統領であったミカエル・ゴルバチョフ氏に寄稿をお願いしました。 このお二人からの寄稿により、 両災害が引き起こした悲惨な状況の視覚的記録にとどまらず当時の対策を指揮した主要人物の視点からの貴重な情報を伝えることができる一冊となることを信じています。
チェルノブイリの事故が起こった時私はまだ14才でした。当時のことは周りが騒然としていたこととクラスメイト全員に配られた奇妙な液体のひどい味以外はあまり記憶にありません。それが安定ヨウ素剤であったことは大人になってから知りました。あの時の体験がチェルノブイリと福島に関わり続ける原動力なのだと思います。この運動の行く末はあなたにかかっています。
ご協力をお願いします。