ベラルーシのチェルノブイリ

ベラルーシのチェルノブイリ

チェルノブイリの事故は一般にはウクライナの悲劇として知られている。原発事故の結果をその目で確かめようとする人のほとんどがウクライナを訪れる。だが、放射性物質降下の70%以上は全く罪のないベラルーシで起こり、その国土の4分の1近くが汚染されたことは未だに一般に知られていない。汚染された国土はただ閉鎖し立ち入り禁止区域(ゾーン)にするのには広すぎた。そのため、避難命令が出されたのは一番汚染された地域に限られ、そこで14万人が強制避難となった。ベラルーシのその他の地域では人々は放射能汚染の闇の中で生きることに慣れるしかなかった。その多くの人が現在も放射能の影響を受けている。

ベラルーシ人の現実、彼らの「ゾーン」がどんなものか見に行く。

ザポヴェドニク

原発事故の後、ウクライナと同様、原発から30キロメートルの立ち入り禁止区域が設定、閉鎖され、その領域にある80個ほどの村から22000人以上が避難させられた。後にその全域が数百キロメートルの有刺鉄線に囲まれ、2千平方キロメートル以上のポレーシェ国立放射線生態学保護区が設立された。その南側はウクライナのチェルノブイリ立入禁止区域に隣接している。その保護区は通称「ザポヴェドニク」(ロシア語から)と呼ばれ、現在は世界にも稀な放射能汚染の影響を調べる研究所になっている。放射能レベルがモニタリングされ、汚染土再生方法の実験、試験的な植物栽培や畜産が行われている。人の出入りが極端に少ないためこの地域は自然が豊かで、この地域の多くの種はレッドリスト(絶滅のおそれのある野生生物のリスト)に登録されている。例えばヤマネコやヨーロッパバイソンが生息している。

地図

ポレーシェ国立放射線生態学保護区

多くの家屋や村全体までがその姿を残すことなく完全に解体され砂で覆われた。解体を逃れた村は現在、ベラルーシの悲劇、チェルノブイリ事故による強制避難の悲しみの証になっている。
「ベラルーシのプリピャチ」とまで呼ばれるほどプリピャチを思わせる一つの村にはいくつかの数階建てのブロック造建築物が建てられている。その他の村は倒壊寸前の木造家屋の集まりである。建物の中に元住民の所有物を見かけることはほとんどない。まるで避難するには十分余裕があり、すべての所持品を持って避難したかのようである。大き目の村には学校、小さな店や公民館まで建っていたが、ここでも事故前の物を見つけることはほとんどない。黒板や机、所々に掛けられているポスターなど、僅かに残されたものからその建物の元の目的がうかがい知ることができる。ザポヴェドニクには発電所もなく、廃墟の町や車の廃棄場もないため、刺激を求める観光客にとってはチェルノブイリほど魅力的ではない。

学校

レーニンの肖像

村の公民館

売店

学校

学校にあるガスマスク

『共産主義建設者の道徳規範』

残された写真

マスク

残されたカレンダー:1986年5月9日―避難の日

幼稚園:残された人形

体育館

レーニンの像

学校:『第2のチェルノブイリはない。絶対に』

放棄された国境の村

廃墟となった木造家屋の一つ

木造家屋の中

木造家屋の中

墓地

ベラルーシ側から見たチェルノブイリ原子力発電所

ゾーン外

ベラルーシの立ち入り禁止区域は放射能汚染の痕跡を見ることができる唯一の場所ではない。放射能汚染は、閉鎖や避難命令などができなかったずっと広い地域で起こり、そこに住んでいた人々は目にみえない脅威と共に生きることに慣れるしかなかった。現在も百万人以上、つまりベラルーシの人口の1割が放射能汚染地域に住んでいる。なお、多くの場所では避難するかどうかは住民の判断に任せられた。事故前からの住民は住み続けることは許されたが、新たな住民の受け入れは禁止された。その結果、多くの地域で現在住んでいるのは高齢者のみとなっている。ベラルーシのサマショールである。

サマショール

サマショール

農地、作物、家畜や食品の汚染度をモニタリングする機関を設立することが必要になった。多くの工場にはそこで生産される中間生産物を検査する専用の検査室が設置された。数回の訪問だけではその効果を評価することは困難である。例えば、放射性ストロンチウムの許容量を10倍超えていた牛乳が見つかった事件が最近話題になった。一つ確かに言えることは、訪問中に食べてみた地元の生産物は大変美味しかったことである。なお一般に汚染食品摂取の危険性を知らせ、その意識を高めるため、はやくも小学校で子供たちに食品の汚染度を図る機器の使い方を教えるためのクラブが作られている。

放射線生物学研究所

学校:食品の汚染度を図るスペクトロメーターの使い方を教えるクラブ

食品行政の他に、放射線にさらされている住民の適切な検査と治療ができる医療機関を設立することが必要となった。そのためベラルーシで最も大きく最新の病院である国立放射線医学・人間生態研究センターが設立された。そこではチェルノブイリ原発事故の被害者が専門的な治療を受けることができる。病院を見学できる格別なチャンスをいただき、ベラルーシの医師の仕事を近くで見ることができた。

甲状腺の診察

甲状腺の生体組織検査

甲状腺手術

まだ終わっていない

興味深く、とても勉強になる訪問であった。すぐ目に見える事故の結果―廃墟となった家、避難させられた住民によって棄てられた持ち物―だけでなく、放射能汚染との戦いはどんなに時間がかかり、辛い過程であるかということも見ることができた。大規模な被害であっても物質的損傷であればやがて復興できる。健康被害の場合はそれが遥かに難しい。医者の献身的な活動や30年前の事故に起因する病気と戦う患者、特に子供の苦しみを見ることによってチェルノブイリ事故の本当の規模と、まだやるべきことの多さを認識させられる。ウクライナは不幸中の幸い、原子力発電所がその領地内にあったことによって、世界中から復興のための多額の寄付がされている。一方ベラルーシは、自力で対処しなければならない。

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お礼

ベラルーシの外務大臣、ウラジーミル・マケイ様、非常事態省チェルノブイリ原発事故処理局長、アレクサンドル・ティトク様、ザポヴェドニク区管理官、私の友人であるフィル・グロスマン氏や現地公務員の皆様にお礼申し上げます。皆様のご協力によってこの訪問を実現することができました。

また、訪問中に絶えず見守ってくださった白い車(GAZ)のお二人の男性にもお礼申し上げます。

そしてなにより、訪問の度に暖かいおもてなしで受け入れてくださるゴメリ、ホイニキ、ブラギナの方々に感謝致します。皆様にこの記事を捧げます。

 

 

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